不条理、不条理文学 この用語は、多くの戯曲や劇の上で用いられるもので、人間存在が本質的に、また不可避的に不条理で、本質が不条理である文学でこそそれが表現可能であるとされている。 A Glossary of Literary Terms 6th edition. M.H.Abrams. 1993. Harcourt Brace Jovanovich pp.1-2
まぁ要するにだ。人間なんてにっちもさっちもいかない存在なんで、とりあえず物語でその様を描くのが人間存在の慰めっつうかなんというか。あ、あけましておめでとうございますm(_ _)m
不条理につき英文学で考えるに、その影響は大陸文学の流れをくんでいることは否定できないわけで、上述の続きでは、アルフレッド・ジャリ『ウビュ王』(1896)、1920年代初頭のフランツ・カフカ作品がその先駆であるとされている。印象派と超現実主義ってやつですな。で、20世紀のあの大戦争を経て、フランスでは、伝統的な啓蒙的価値観、人間は合理的な存在で、英雄待望論や尊厳を身に受けるだけのものだよっていうのが打破されるべき旧価値となり、カミュ、サルトルらの反対運動が起こったと。
詳しくはカミュの『異邦人』(1942)って名作があるので読めばわかるんだけれど、カミュって人はとにかく人間に対する不信感、イレイショナルすなわち不合理っていうのがあまりにも目に付いたんだろうと。この作品を思春期に読むと確実に屈折する。うん。だって「太陽がまぶしすぎるせいで人殺したって悪くないんじゃね?」って、そりゃ正当化の理論としては特殊すぎるでしょwww誰だって太陽がまぶしけりゃ嫌にもなるが、それを人殺しの理由にしてしまえるかというのは、どこに理由の土台をつくればいいんだろう、って。それって実存主義、「俺存在してるんだ、存在が全てに先立つんであって、他は意味ないし!」の詭弁的正当化だよなぁ、と考えてしまう。うむ。
日本でも恋愛の不条理に関しては大好評。とりあえずこんなアニメもあるしね。最終回はみんなでNICE BOAT!
いわゆる「むしゃくしゃしたのでやった、後悔している」みたいな警察発表の無味乾燥とこの文学上の不条理を見る。不条理は刑法講学上の「動機」について明らかに雄弁ではない。むしろ、動機そのものの不可解を示して、反社会性を強調する。たとえば、心身が一般的な正常の状態になく、ちょっとしたきっかけで悪に転落する行為を行えるわれら。でも、反対動機の形成、「これやったらお縄になって(ry」というのは、そうした権威的な存在、いわば他人の視線を感じているからできるのであって、自分のみを見つめざるを得ない不幸な境遇の(実存主義的わがままさんな)人間であったら、他者というものの存在にどうしてもコミットできなくて、人間存在の不条理に身を任せて正当化しうるのではないかとも考えうる。それが不条理の文学の一端であるな。
不条理劇の旗手として。ウジューヌ・イヨネスコ、『椅子』(1952)では、宗教、形而上学、超越論的ルーツから切り離された人間が消滅してしまうこと、それが無意味、不条理、無用の長物となり、グロテスクで、嘲笑される悲劇の中にのみ現出するようなことが描かれている。サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1955)はスザンヌ・ヴェガかショーン・コルヴィンの歌詞にも使われていたけれども、グロテスクに喜劇的で、不条理で、終わりがない。いわく、「何も起きなけりゃ、誰も来なけりゃ、誰も行かなけりゃ、ひでえこった。」ベケット作品の人物は所在ない人生であっても、それを生き続け、何とか意味を持たせようとし、通じ合えないものを通じ合わせようとする。
時代の激流に翻弄されてひどい少年生活を過ごしたジャン・ジュネ、「劇作によって、日常の対話の中に潜在する危機を晒し出し、抑圧された密室に突破口を開いたこと」で2005年にノーベル文学賞を受賞したハロルド・ピンター、『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』で有名なピューリッツアー賞受賞作家エドワード・オールビー、個人的に大好きな『恋に落ちたシェイクスピア』のシナリオをつかさどったトム・ストッパードなど、現代劇や文学のほうにもこうした不条理の影響はある。ジャン・ジュネなんかは相当ひどい生活してる(男娼とか犯罪とか)んだけれど、サルトルとかコクトーとかが減刑嘆願しちゃって終身刑免れちゃったっていうね。もうアホかと。でもそういうすれすれの表現をする所で人間存在の矛盾と言うか、矛盾を拡大再生産する人間を垣間見せてくれているところにこの不条理という表現方法の存在意義があると思うんだぜ。
まとめ:不条理な生い立ちが不条理な表現を生む。反面教師としての文学表現。
さすらいのおいらが今日も行く。 strongbow is walking around there.
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