さすらいのおいらが今日も行く。 strongbow is walking around there.

2010年4月23日金曜日

Affective Fallacy 【俺的文学定義集】

とは、読者が―特に情緒的影響から―ある詩文自体の評価に誤謬を与えていることを
指す。A Glossary of Literary Terms 6th edition. M.H.Abrams. 1993. Harcourt Brace Jovanovich. p.4
ウィムザット さんとかビアズリーさんとか、日本語版ウィキにはあまり載っていないアメリカ新批評(以下ニュークリ)の研究家達が考えた定義なんですが、日本語訳も自分の探した限りではみつかっていないと言う罠w
とりまAffectiveを心理学でいう「感情・情動」という新英和大辞典の定義2にそって訳せば、情動的誤謬とでも訳せますかね。うん。で、唯野教授がこういう良いことを言ってらっしゃるので引用しておく。

「・・・このニュークリは厳密で客観的な方法だけで分析するためのテキストに詩を選んでさぁ、解剖のテクニックがちがちに作り上げちまったの・・・これ、便利なんだよね。大学で教えるのに。・・・これ、科学的合理主義に勝とうとして、自分たちのやっていることなんていったら、その科学的合理主義のパロディなんですよ。技術優先だし、判断停止ってやつですよ。だもんだから簡単に体制に組み込まれちゃった。つまりニュークリは、詩を作者からも読者からも解き放つなどと言って、現実の社会からも歴史からも切り離しちまった。」
               『文学部唯野教授』 筒井康隆 岩波書店 1992 PP.77-78より一部抜粋

策士策に溺れるたぁこのことよ(キリッ)

最初の文献の同項にある引用によれば、「詩自体は、特に批評的判断の対象として、存在を失いつつあるから、相対主義や印象批評をやめ」なければならんのだよとお二人は説いたと言う。で、これにはケンブリッジ大学のニュークリ巨頭I.A.リチャーズがものしたPrinciples of Literaly Criticismというに応えてのこと。リチャーズ曰く、詩は読者の心理的反応から自由ではないということ。いかにもイングランドの経験論哲学に依拠しているなぁ、経験的な感情の反応、その統計・客観的な分析の集積体である心理学の道具立てを用いれば、詩文をより科学的に分析できるんじゃねのと考えたわけだなぁ。当時の分析哲学の流れとかを多分に意識して、時代遅れ的な文学の地位向上を図ったような感覚を受ける。現代では、この情動的誤謬をより洗練して、Reader-response criticismなんていう「読者論」というか、文学を読者中心に見ようとする立場もある。受け手が最後に文学を完成させるというもの。あ、そうか。MOTHER2って極めて文学的なゲームだったんだorz







上のお二人はもう一つ、Intentional Fallacyなんて批評についても一家言もっていらっしゃいますが、まぁそれはおいおい。とりあえずこうした流れを考えると、文学の難しさと言うか、文学自体は作家のおかれる時代状況や経験からは絶対切り離せないし、読者のそれもまた同じで、これらを加味しないで文学を批評の俎上に乗せると、必ずどこかで片手落ちしてしまうんではないかなぁとおいらも思ってはいるのだった。特に『モテキ』とかさ。

え?漫画を文学と同列に並べるなって?
とりあえず今そう言った人は愛知の巨星、呉智英大先生に謝れい!!

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