「リュウ、本当に悪かったな、俺、金貯めてインド行くよ、沖仲仕やって金貯めてさ、もうわずらわしいことごめんや、インド行くよ」
病院からの途中ヨシヤマは一人で話し続けた。ゴム草履にも足の指にも血がついて時々包帯に触れる。顔がまだ青白いが、痛みはないといった。捨てたパイナップルはポプラの側にちゃんと転がっている。夕方だし鳥は姿が見えなかった。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』講談社、1978、pp125-126
限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。
同上、p149
「うすっぺらなんだよ」
花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』小学館より、青山のセリフ
「夢でも 夢でも 届かないのに
夢さえ 夢さえ 捨てられない」
銀杏BOYZ 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』より 作詞作曲:峯田和伸
とりあえず↑の曲を聞いて半日煩悶していた自分である(礼)。
レトリックの技法に、換喩(メトニミー)というものがある。ある事物を利用して、それと何らかの関係を結んでいる別の事物を指示することである。その本質的機能は表現の焦点化で、差異的=異質なものの集合(全体)の中から最も目立つ要素(部分)が抽出されて全体に取って代わる。特定の部分に焦点を当てて、残余の部分を指示、暗示するのである。(野内良三『レトリック入門』2002、世界思想社より)
上述の曲のPVは、多様な若者あるいは壮年の姿をありありと移し、それをフラッシュ的につなぎ合わせることで、撮影場所は東京の限られた一部分であることが明らかであるにしろ、作為的かつ巧妙に、「生きることにもがく」日本の人々を暗示する。
銀杏BOYZは衝動のバンドだと自分は考える。
衝動を音楽に捉えなおして表現する第一人者である。
その衝動、今回はおそらく「怨念」のような、夢を夢としてあきらめられない悔しさ、自信の薄さ、根拠のない尊大さというもの、これらを街角から取り上げ、全体としての閉塞感を映像に漂わせる。
この映像は、怖い。
そこに自分を発見するからである。
誰でもどこかに、夢を抱えている。
それを語る。
しかし、実現することのできる夢はあまりに少なく、
実現できるものは本当に努力した一握りであり、
自分に負けたものはとことん落ち込んでいく。
そうした自由の反語、堕落の怖さがここにある。
夢を持ってるんだ!
だけどかなえられない。
叶える実力がない。
そのフラストレーションを媒介にして、銀杏がうなりをあげる。
「もう遅いか」
銀杏は残酷に現実を見せ、叫んでいる。
映る顔映る顔に、そのフラストレーションがある。
そしてこちらを見据える。
そこに欲望の渦を見て、自分は嘔吐感を覚える。
そこに厳寒の波濤、酷暑の白熱を感じる。
現実はつねに夢を否定し続ける。
あくまでもグロテスクに、
まるで自分たちのライブが、
フラストレーションの、
あの熱い灼熱の迸りそのものだと言うかのように、
銀杏BOYZが曲を歌う。
夢が半端なままではかなわないと思い知らされる。
そんなこんなで、ずうっともだえ苦しみながらこのPVを見ておった次第。10回くらい。
苦しかった。
これは応援でもあり、挑戦でもある。
「お前なんぞ砂漠の中の粒にしかならん
凡庸さを打ち破れるのか?
他人を納得させられるほどの自信を持って?」
そうした気圧を感じる。
でも、見てよかった。
さすらいのおいらが今日も行く。 strongbow is walking around there.
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